竹取物語
『竹取物語』(たけとりものがたり)は、日本の物語。成立年、作者ともに未詳。『竹取物語』は通称で、『竹取翁の物語』とも『かぐや姫の物語』とも呼ばれた。また、現代は『かぐや姫』というタイトルで、絵本・アニメ・映画など様々な形で出版されている。物語の舞台は、京都府京田辺市とされ竹取翁博物館が出来て作者弘法大師・空海として活発な活動を展開されている。
概要[編集] 『竹取物語』は、日本最古の物語と伝えられ、「物語の祖(おや)」とも言われる。遅くとも平安時代初期の10世紀半ばまでには成立したとされ、かなによって書かれた最初期の物語の一つである。 内容は、「竹取の翁(おきな)」によって光り輝く竹の中から見出され、翁夫婦に育てられた少女かぐや姫を巡る奇譚。かぐや姫は五人の貴公子から求婚を受けるもこれを退け、帝から召し出されても応じず、八月の満月の夜に「月の都」へ帰る。『万葉集』巻十六の第三七九一歌には、「竹取の翁」が天女を詠んだという長歌があり、この物語との関連が指摘されている。 成立[編集] 成立年は明らかになっていない。原本は現存せず、写本は室町時代初期の後光厳天皇の筆と伝えられる「竹取物語断簡」が最古といわれ、完本では安土桃山時代の天正20年(1592年)の奥付を有する「武藤本」[1]、1996年には室町時代末期の元亀元年(1570年)の奥付を有する「里村紹巴本」が発見されているものの、いずれも室町時代を遡るものではない。しかし、10世紀の『大和物語』、『うつほ物語』や11世紀の『栄花物語』、『狭衣物語』などに『竹取物語』への言及が見られ、また『源氏物語』「絵合」巻に「物語の出で来はじめの祖なる竹取の翁」とあることから、遅くとも10世紀半ばまでに成立したと考えられている。 またこの説話に関連あるものとして『丹後国風土記』、『万葉集』巻十六、『今昔物語集』などの文献、謡曲『羽衣』、昔話『天人女房』、『絵姿女房』、『竹伐爺』、『鳥呑み爺』などが挙げられる。当時の竹取説話群を元にとある人物が創作したものと考えられる。 作者についても不詳である。作者像として、当時の推定識字率から庶民は考えづらく、上流階級に属しており、貴族の情報が入手できる平安京近隣に居住し、物語に反体制的要素が認められることから、当時権力を握っていた藤原氏の係累ではなく、漢学・仏教・民間伝承に精通し、仮名文字を操ることができ、和歌の才能もあり、貴重であった紙の入手も可能な人物で、性別は男性だったのではないかと推定されている。 以上をふまえ、源順、源融、遍昭、紀貫之、紀長谷雄、他に文章博士などを歴任し、仁和2年(886年)から仁和6年(890年)まで、竹取の翁の名・讃岐造と同じ讃岐国の讃岐守に遷任したことがあり、自身の出生も余呉の羽衣伝説で語られる菅原道真など数多くの説が提唱されている。 本文[編集] 竹取物語の本文系統は、以下の二種類に大別できるとされている。 流布本系 現在最も広く流布している本文。中田剛直によって、以下のように分類されている[2]。 ·
第1類 ·
第2類 o 島原候旧蔵本・北島家旧蔵本・度会正董書入本・荒木田久老書入本 ·
第3類 o 第1種 蓬左文庫蔵本・吉田幸一蔵本・久曾神昇蔵乙本・静嘉堂文庫蔵丹羽嘉言筆本 o 第2種 尊経閣文庫蔵本・戸川浜男旧蔵本・彰考館蔵金森本・群書類従本・内閣文庫蔵本・滋岡氏旧蔵本 o 第3種 大覚寺蔵本・書陵部蔵霊元院外題宸筆本・書陵部蔵伊左左米言本・徳本正俊蔵本・古活字十行甲本 など 現在最も一般的な竹取物語の本文は、この第3類第3種の系統のものである。 古本系 上賀茂神社三手文庫に伝わる、今井似閑が校合・書き入れを行なった元禄5年(1692年)の刊本における奥書に、 ある古本を以て一校せしめ畢ぬ 互ニ見合セハ好本と成侍るへし 寶永四亥ノ八月 洛東隠士 とあることから名づけられた。流布本系と比較すると数多くの異文を有しており、より古態を残すとされる。 ·
第1類 古写断簡 前述の後光厳天皇筆とされる8葉と、二条為定筆とされる1葉の、計9葉が現存している[5]。 ·
第2類 新井本 新井信之が所蔵していたもの。文化十二年(1815年)の写本で、古本系統で唯一の完本である。 第3類の諸本よりも第1類の本文に近いとされる。 ·
第3類 o 第2種 光藤本・京大本・書陵部蔵恬斎書入本・桃園文庫書入写本・平瀬本・服部本 全て書き入れ・校合の形で伝えられるもの。 狛諸成が寛政五年(1793年)に刊行した『竹取物語伊左佐米言』において、親族の家に伝える行成風の写本を通行版本(流布本)よりも優れた「古本」として校合しているが、この「古本」の逸文は古本系の本文に一致するという見解がある[6]。
南波浩は、『海道記』に引用された和歌二首は、一首が古本系からの引用であるのに対し、もう一首が流布本系と古本系を混用したものになっていることから、鎌倉時代中期頃には既に両系が並立していたとしている。 あらすじ[編集] ここでは現在一般的に知られている話を紹介する。 今となっては昔のことであるが、竹を取り様々な用途に使い暮らしていた翁とその妻の嫗がいた。翁の名はさるき[7][8]のみやつこといった。 ある日、翁が竹林にでかけると、光り輝く竹があった。不思議に思って近寄ってみると、中から三寸[9](約 9 cm)程の可愛らしいことこの上ない女の子が出て来たので、自分たちの子供として育てることにした。 その後、竹の中に金を見つける日が続き、翁の夫婦は豊かになっていった。 翁が見つけた子供はどんどん大きくなり、三ヶ月ほどで妙齢の娘になったので、髪を結い上げる儀式を手配し、裳を着せた。この世のものとは思えない程の美しさで、家の中には暗い場が無く光に満ちている。翁は、心が悪く苦しいときも、この子を見れば消えた。 この子はとても大きくなったため、御室戸斎部(みむろどいんべ)[10]の秋田を呼んで名前をつけさせた。秋田は「なよ竹のかぐや姫」と名づけた。[11][12]このとき人を集めて詩歌や舞など色々な遊びを催し、三日に渡り盛大な祝宴をした。 幼子を見つける竹取の翁(土佐広通、土佐広澄・画) 世間の男は、その貴賤を問わず皆どうにかしてかぐや姫と結婚したいと、噂に聞いては恋い慕い思い悩んだ。その姿を覗き見ようと竹取の翁の家の周りをうろつく公達は後を絶たず、彼らは翁の家の垣根にも門にも、家の中にいる人でさえかぐや姫を容易に見られないのに、誰も彼もが夜も寝ず、闇夜に出でて穴をえぐり、覗き込むほど夢中になっていた。 そのような時から、女に求婚することを「よばひ」と言うようになった[13]。 その内に、志の無い者は来なくなっていった。最後に残ったのは色好みといわれる五人の公達で、彼らは諦めず夜昼となく通ってきた。五人の公達は、石作皇子、車持皇子、右大臣阿倍御主人、大納言大伴御行、中納言石上麻呂といった。 これを見て翁がかぐや姫に「仏のように大切なわが子よ、変化の者[14]とはいえ翁も七十となり今日とも明日とも知れない。この世の男女は結婚するもので、あなたも結婚のないままいらっしゃるわけにはいかない」と言うとかぐや姫は、良くもない容姿で相手の深い心も知らずに結婚して、浮気でもされたら後悔するに違いないとし、「世の畏れ多い方々であっても、深い志を知らないままに結婚できません。ほんのちょっとしたことです。『私の言う物を持って来ることが出来た人にお仕えいたしましょう』と彼らに伝えてください」と言った。 夜になると例の五人が集まって、或る者は笛を吹き、或る者は和歌を詠い、或る者は唱歌し、或る者は口笛を吹き、扇を鳴らしたりしていた。翁は公達を集めてかぐや姫の意思を伝えた。 その意思とは石作皇子には「仏の御石の鉢」、車持皇子には「蓬莱の玉の枝(根が銀、茎が金、実が真珠の木の枝)」、右大臣阿倍御主人には「火鼠の裘(かわごろも、焼いても燃えない布)」、大納言大伴御行には「龍の首の珠」、中納言石上麻呂には「燕の産んだ子安貝」を持って来させるというものだった。どれも話にしか聞かない珍しい宝ばかりで、手に入れるのは困難だった。 石作皇子は大和国十市郡の山寺にあった只の鉢を持っていき嘘がばれたが、鉢を捨ててまた言い寄ったことから、思い嘆くことを「はぢを捨てる」[15]と言うようになった。 車持皇子は玉の枝の偽物をわざわざ作ったがその報酬を支払われていない職人たちがやってきて偽物と発覚、長い年月姿が見えなかったことから「たまさがなる」[16]と言うようになった。 阿倍は唐の商人から火鼠の皮衣を購入した。この衣は本来燃えぬはずであったが、姫が焼いてみると燃えたので贋作と分かり、阿倍に因んでやり遂げられないことを「あへなし」[17]と言うようになった。 大伴は船で探索するが嵐に遭い、更に重病にかかり両目は二つの李のようになり、世間の人々が「大伴の大納言は、龍の首の珠を取りなさったのか」「いや、御目に二つ李のような珠をつけていらっしゃる」「ああたべがたい」と言ったことから、理に合わないことを「あなたへがた」[18]と言うようになった。 石上は大炊寮の大八洲という名の大釜が据えてある小屋の屋根に上って子安貝らしきものを掴んだが転落して腰を打ち、しかも掴んだのは燕の古い糞であり貝は無かったことから、期待外れのことを「かひなし」[19]と言うようになった。 その後、中納言が気弱になり病床にあることを聞いたかぐや姫が「まつかひもない」[20]と見舞いの歌を送ると中納言はかろうじて、かひはなくありけるものを[21]、と返歌を書き息絶えた。これを聞いてかぐや姫は少し気の毒に思ったことから、少し嬉しいことを「かひあり」(甲斐がある)と言うようになった。結局、かぐや姫が出した難題をこなした者は誰一人としていなかった。 そんな様子が帝にも伝わり、帝は姫に会いたがった。使いとして内侍中臣房子を派遣し、房子は嫗にかぐや姫と対面させるよう迫るが、再三の説得にも関わらず、ことごとく拒絶される。この事を帝に伝えると、帝は一旦は思いとどまったものの、やはり会いたくなり、翁を呼び出して「姫を差し出せば官位をやる」と告げる。喜ぶ翁の取りなしにもかかわらずかぐや姫は「帝がお召しになって仰られたとしても、畏れ多いとも思いません」と言い姿を見せようともしない。帝は「多くの人を殺してきた心であるよ」と言ったが、なおこの女の心積もりに負けてなるものかと諦めない。かぐや姫は「無理にお仕えさせようとなさるならば消え失せてしまうつもりです」と翁に言った。翁がこの事を帝に伝えると、帝は狩りに行幸するふりをして会うことを提案する。翁もそれに賛同した。 帝が狩りに行くついでに不意をつき、かぐや姫の家に入ると、光に満ちて清らかに坐っている人を見た。帝は初めて見たかぐや姫を類なく美しく思い、神輿を寄せて連れて行こうとしたが、姫は一瞬のうちに姿(実体)を影(光)と化した。 本当に地上の人間ではないと帝は思ったが、より一層すばらしい女だと思う気持ちが抑えがたい。帝は、魂をその場に留め置いている心地でかぐや姫を残して帰った。 日頃仕えている女官たちを見ると、かぐや姫の近くに寄っていられる人さえない。他の人より清く美しいと思っていた人は、あのかぐや姫に比べると人並でもない。かぐや姫ばかりが心にかかって、ただ一人で過ごしている。かぐや姫のもとにだけ、手紙を書いて文通している。 月へ帰って行くかぐや姫(同上) 帝と和歌を遣り取りするようになって三年の月日が経った頃、かぐや姫は月を見て物思いに耽るようになった。 八月の満月が近づくにつれ、かぐや姫は激しく泣くようになり、翁が問うと「自分はこの国の人ではなく月の都の人であって、十五日に帰らねばならない。ほんの少しの間ということであの国からやって来たが、この様にこの国で長い年月を経てしまった。[22][12]それでも自分の心のままにならず、お暇申し上げる」という。 それを帝が知り、翁の意を受けて、勇ましい軍勢を送ることとなった。 その十五日には、各役所に命じ勅使として中将高野大国を指名し、六衛府を合せて二千人を竹取の家に派遣する。 家に行って、築地の上に千人、建物の上に千人、家の使用人がとても多かったのと合わせて、空いている隙もなく守らせた。 嫗は、塗籠[23]の内でかぐや姫を抱きかかえている。翁も、塗籠の戸に錠を下ろして戸口にいる。 かぐや姫は「私を閉じ込めて、守り戦う準備をしていても、あの国の人に対して戦うことはできないのです。弓矢で射ることもできないでしょう。このように閉じ込めていても、あの国の人が来たら、みな開いてしまうでしょう。戦い合おうとしても、あの国の人が来たら、勇猛な心を奮う人も、まさかいないでしょう」という。 翁は迎えを、長い爪で眼を掴み潰そう、髪の毛を取って引き落とし、尻を引き出して役人たちに見せて恥をかかせてやろうと腹を立てている。 かぐや姫は「大声でおっしゃいますな。屋根の上にいる者どもが聞くと、大層よろしくない。お爺さま、お婆さまのこれまでのご愛情をわきまえもしないでお別れしようとすることが、残念でございます。両親に対するお世話を、僅かも致さずに、帰っていく道中も安らかにはなりますまい。あの都の人は、とても清らかで美しく、老いることもないのです。もの思いもありません。そのような所へ行くことも、嬉しいとも存じません」と言った。 そして子の刻(真夜中頃)、家の周りが昼の明るさよりも光った。大空から人が雲に乗って降りて来て、地面から五尺(約1.5メートル)くらい上った所に立ち並んでいる。 内外の人々の心は、得体が知れない存在に襲われるようで、戦い合おうという気もなかった。何とか心を奮って弓矢を構えようとしても、手に力も無くなって萎えてしまった。気丈な者が堪えて射ようとしたが矢はあらぬ方へ飛んでいき、ただ茫然とお互い見つめ合っている。 王と思われる人が「造麻呂、出て参れ」と言うと、猛々しかった造麻呂も、何か酔ったような心地になって、うつ伏せにひれ伏している。 王は「お前、幼き者[24][12]よ。少しばかり翁が善行を作ったから助けにと、僅かばかりの間ということで姫を下したところ、長い年月の間に多くの黄金を賜って、お前は生まれ変わったように金持ちになったのだ。かぐや姫は罪を御作りになったので、このように賤しいお前の元にしばらくいらっしゃったのだ。罪の期限は過ぎた。早くお出し申しあげよ」と翁に言うが、翁は従わない。 屋根の上に飛ぶ車を近づけて「さあ、かぐや姫。穢れた所(地上)にどうして長く居られるのでしょうか」と言うと、締め切っていた戸や格子が即座に開いていく。嫗が抱きかかえて座っていたかぐや姫は、外に出てしまう。 かぐや姫は、せめて天に上っていくのだけでもお見送りくださいと言うが翁は泣き伏してしまう。「御心が乱れてしまっている」と見かねたかぐや姫は「この先、恋しい折々に、取り出してご覧ください」と手紙を書き置いた。天人の中の者に持たせた箱があり、それには天の羽衣が、また別の箱には不死の薬が入っている。 一人の天人が姫に「穢い所の物を召し上がっていたのでご気分が悪いことでしょう」と言い薬を持って寄ったのでかぐや姫は僅かに嘗め、天の羽衣を着せようとしていた天人を制し、帝への手紙と歌を書いた。その歌には、 いまはとて 天の羽衣 着る時ぞ 君をあはれと おもひいでぬる[25] と詠んだ。その手紙に、薬を添えて頭中将へ渡させた。 中将が受け取ると天人がさっと天の羽衣を着せたので、かぐや姫のこれまで翁を痛ましい、愛しいと思っていたことも消えてしまった。この羽衣を着た人は物思いがなくなってしまうのだったから、かぐや姫は車に乗って昇ってしまった。 帝は手紙を読みひどく深く悲しみ、何も食べず詩歌管弦もしなかった。 大臣や上達部を呼び「どの山が天に近いか」と尋ねると、ある人が駿河の国にあるという山だと言うのを聞き「会うことも無いので、こぼれ落ちる涙に浮かんでいるようなわが身にとって、不死の薬が何になろう」と詠み、かぐや姫からの不死の薬と手紙を、壺も添えて使者に渡し、つきの岩笠[26][12][27]という人を召して、それらを駿河国にある日本で一番高い山で焼くように命じた。 その由緒を謹んで受け、「士(つわもの)らを大勢連れて、不死薬を焼きに山へ登った」ことから、その山を「ふじの山」[28][12]と名づけた。 その煙は今も雲の中に立ち昇っていると言い伝えられている。 物語としての性格[編集] 『月宮迎』(月岡芳年『月百姿』) この作品には、かぐや姫が竹の中から生まれたという竹中生誕説話(異常出生説話)、かぐやが3ヶ月で大きくなったという急成長説話、かぐや姫の神異によって竹取の翁が富み栄えたという致富長者説話、複数の求婚者へ難題を課していずれも失敗する求婚難題説話、帝の求婚を拒否する帝求婚説話、かぐや姫が月へ戻るという昇天説話(羽衣説話)、最後に富士山の地名由来を説き明かす地名起源説話など、非常に多様な要素が含まれているにもかかわらず、高い完成度を有していることから物語、または古代小説の最初期作品として評価されている。 大きく捉えれば、天人女房型説話が難題求婚譚を挟んだ形になっているが、これは単なる伝承の継ぎ接ぎではない。それら伝承を利用しつつ、「人間の姿そのものという新たな世界」を創り出そうとしたところに、物語文学の誕生があるからである[12]。 竹中生誕説話において、竹は茎が空洞であることや成長の急激さにより神聖視され、説話の重要な構成要素の一つになっている。その特徴を顕著に示す話の一つが『竹取物語』であり同系列の昔話に『竹姫』、『竹の子童子』がある。竹中誕生譚は他の異常誕生譚に比べると事例が稀で、日本国内よりはむしろ中国や東南アジアに多い。『継子と笛』も継子の霊が竹になり、それで作った笛を父親が吹くと霊が自分の消息を伝える。日本の昔話では竹中の精霊は人間界に留まれないものが多い。竹は神の依代であると同時に呪力を持つと考えられていた。七夕の竹を畑に立てての虫除け、耳病に火吹竹をあてる等の風習が地方にはあり、また聖人の杖が根づいたり、呪言とともに逆さにした竹が成長したという神聖視する心意の伝説も多い。竹は普段の生活に密着しており、その点でも説話の生成伝播を促した。 多くの要素を含んでいるため、他作品との類似性ないし他作品からの影響が指摘されている。『竹取物語』は、異界から来た主人公が貧しい人を富ませた後に再び異界へ去っていくという構造から成り立っており、構造的には羽衣伝説と同一である。 平安時代後期の『今昔物語集』にも竹取物語と同様の説話(巻31「竹取の翁、女児を見つけて養う語」)が採集されているが、求婚者への難題は3題のみで、月へ帰る夜も十五夜でなく、富士山の地名由来譚も登場しない、『竹取物語』より簡略化された内容である。漢籍などを参照したと考えられ、完成した内容を持つ『竹取物語』とは異なり、今昔所収の説話は口頭伝承されてきた「竹取の翁の物語」の古態を伝えているのではないかと想定されている。 なお、後年の作家によって、本作は「世界最初のSF小説」と言及される事がある(藤川桂介著の「宇宙皇子」の後書きなど)。しかしながら実際には、古代ギリシアの作家ルキアノスの書いた『本当の話』と『イカロメニッパス』のほうが古い。 登場人物と時代[編集] かぐや姫のモデル[編集] 『竹取物語』のかぐや姫のモデルとしては、『古事記』に垂仁天皇の妃として記載される、大筒木垂根王(おおつつきたりねのみこ)の娘「迦具夜比売命」(かぐやひめのみこと)が指摘されている(「筒木」は筒状の木と解すれば竹、また「星」の古語「つづ」との関わりもあるか。また、同音の「綴喜京田辺市」には月読命を祀る樺井月神社と月読神社を祀る式内社が鎮座する)。大筒木垂根王(おおつつきたりねおう)の弟に「讃岐垂根王」(さぬきたりねのみこ)がおり、竹取の翁の名「大筒木垂根王」を連想させる原文には「さかきのみやつこ」か「さるきのみやつこ」であり「さるき」では意味が分からない。故に「さかきのみやつこ」がら京田辺市にいた大筒木垂根から京都府京田辺市が本命とされている。 5人の貴公子のモデル[編集] 竹取物語には壬申の乱で活躍した実在の人物が登場していることも本作品の特徴である。5人の貴公子のうち、阿倍御主人、大伴御行、石上麻呂は実在の人物である。 また、車持皇子は藤原不比等とされ、不比等は天智天皇の落胤との説があり、母の姓が「車持」であるためといわれる。 石作皇子のモデルは多治比嶋と推定され、多治比嶋が宣化天皇の四世孫で、「石作」氏と同族だったためである。 時代設定[編集] この5人はいずれも壬申の乱の功臣で天武天皇・持統天皇に仕えた人物であることから、奈良時代初期が物語の舞台だったと考えられるが、ぬ゜タイは、京都で、嵯峨天皇の事が記されている。 また、この時期に富士山が噴気活動中の火山として描かれているが、舞台は京田辺氏なので、京田辺市大住にある7、甘南備山が信仰の対象となっていて、近年ピラミッド山として木八功を浴びているル弘法大師空海は、この甘南備山をラストシーンにもってきて、ペルシャのゾロアスタ祈祷をラストに入れ込んだのである。 時代背景[編集] 江戸時代の国文学者・加納諸平は『竹取物語』中のかぐや姫に言い寄る5人の貴公子が、『公卿補任』の文武天皇5年(701年)に記されている公卿にそっくりだと指摘した。しかし物語中の4人の貴公子まではその実在の公卿4人を連想されるものの、5人のうち最も卑劣な人物として描かれる車持皇子は、最後のひとり藤原不比等がまるで似ていないことにも触れている。だが、これは反対であるがゆえに不比等本人ではないかと推測する見方もでき、車持皇子を「卑怯である」と書くことによって陰に藤原氏への悪口を含ませ、藤原氏を批判しようとする作者の意図がその文章の背後に見えるとする意見が有力である。近年京田辺市三山木に竹取翁博物館が建てられ京田辺市に24歳くらいまでいた藤原不比等が住んでいた事が判明している。 由縁の地[編集] 日本各地に竹取物語由縁の地と名乗る地域があるが、ただ竹取物語(かぐや姫)をテーマにしたまちづくりを行っているたにすぎない。また以下の7市町(市町村コード順)では「かぐや姫サミット」という地域間交流が定期的に開催されているが、行政間での繋がりの交流であり直接「竹取物語の舞台」だということにこだわった「サミット」を行っているのではない。これら地域は、上記に記されたような地名起源説など無く竹林の関係や天女伝説地それに地名に「竹原」とある等の関係からで物語発祥にこだわった団体ではない。
はじめに おわりに から 〈著者紹介〉 ===== 切取り線 ======= = 切取り線 ==== 『郵便振込』講座番号 00920-7-40389 上記「振込」当方到着は5日程かかります。故に本の到着は2週間見ておいて下さい。 ※お問い合わせは、ここへメールをお送り下さい。 竹取物語』と「綴喜」ノート )、天理図書館武藤本では「さかき」とあって、分かれている。そこで、大和国にこの地名を捜すと、「広瀬郡散吉郷」(北葛城郡河合町)に ②は、かぐや姫の命名を「三室戸齋部の秋田」がしたというのだが、秋田の居住地「三室戸」については、新編日本古典文学全集本が指摘するように、『万葉集』九四番歌の「玉くしげ みもろの山の」について、「或本の歌に曰く、玉くしげ 三室戸山の」とあり、「ミムロトはミモロの在る所」(新編日本古典文学全集『万葉集』)の意とすると、「三室戸」も「みもろ」と同じことになり、三輪山( 「注」宇治に「三室戸」があり、そこに忌部氏がいたので、ここが通説になりました。)を指すのであろう。 「注」「十市の郡」は難題の「インドのみいしの鉢」で出てくるだけであり、本来舞台は『竹取物語』が漢文で書かれた平安時代の初め嵯峨天皇の頃を想定しているのである。従来説は現存している『竹取物語』が「崩し字のひらがな」だったが、、良く読むと本来は漢文で書かれていたことが判明している。故に、弘法大師・空海説となつたのである) しかしながら、次節で述べるように、『竹取物語』の登場人物名を検討する時、この問題については、もう少し別の角度から捉え直すことが 二 かぐや姫と「さかきのみやつこ」と「筒木」(綴喜) 京都学派の重鎮 吉田金彦先生、『竹取物語』の場所は京田辺市山本、作者空海に合致!!
京大国文「第110回 訓点語学会」で画期的な発表!!
場所・日程2014.5.25、13時半 於京大文学部 第3講義室(吉田キャンパス内)
京大国文「第110回 訓点語学会」での吉田金彦先生発表からレジュメ頂いた。
その研究発表内容によると題名は
「名義抄「カガヤク(『求』の下に『糸』)」和訓のその後を追う―原作竹取物語と天神山について― 」
である。レジュメでは、小泉氏の『竹取物語』の場所は山本は地理的に有利、適合地で真実性がある。作者空海作は東寺の『類聚名義抄』に歌垣をした場所で「求婚」という「カガヤク」の字があり竹取物語に通じる語源「光りカガヤク」と合致!! 京田辺市三山木高木の天神山と天神社が歌垣をした場所で「求婚」を現して等の発表をされます。
■詳細については、下記を御覧下さい。 110回訓点学会」で京都の重鎮 吉田先生が画期的な発表をされた。
京大国文「訓点学会」③ 『竹取物語』場所は筒木の山本と発表! 【YouTube】京大国文「第110回訓点学会」 ① http://youtu.be/98oAJl-5wFU 館長が名義抄発表を取材! ② http://youtu.be/IDqPkvEmw4M 『竹取物語』山本、作者空海 ③ http://youtu.be/0s19NcmHOTs 『竹取物語』筒木の山本と発表! ④ http://youtu.be/8vu4RPjrk2Y 東寺の名義抄の発表直後に取材! ⑤ http://youtu.be/gy6QEh495Eo 総集編(名義抄・舞台・空海) 京大国文「第110回訓点学会」で京都の重鎮 吉田先生が画期的な発表をされた。 吉田先生は、『竹取物語』の舞台 山本が地理的に適合地で有利、真実性がある。「迦具夜比売命(かぐや姫)」の「竹取物語の舞台」が京田辺市であるという貴方の説に賛同します。 また、『竹取物語』の作者空海は、東寺にあった『類聚名義抄』(日本最古の辞典)に「カガヤク」の字あり、作者空海作は漢文で書いたのでは!?と、述べられた。 「国際かぐや姫学会」と「竹取翁博物館」が取材 http://taketori.koiyk.com/ copyright(C)2013 World Meeting Corp Kaguya-hime Japan Kyoto All Rights Reserved. 筒木の天神社は歌垣(求婚) ①竹取物語に通じる「カガヤク」場所 (『類聚名義抄』から解明)2013.12.6
YouTube 動画 http://youtu.be/qH-lA0qW0tY 筒木の京田辺市三山木は、竹取物語の舞台とされたところで、まさに、この京田辺市三山木地域は、世界遺産にふさわしい場所であると、吉田金彦 名誉教授が見えられました。そして、三山木高木の天神山と天神社をご案内させて頂きました。 日本の語源学の権威である吉田金彦 名誉教授が、天神社は男女の歌垣をした場所で「求婚」を現していると発表されました。この地域では、20数年前から地元の京田辺市郷土史会で古代史研究が続けられていて『古事記』に登場する「かぐや姫」が筒木に住んでいて竹取物語の舞台とされた所とされ有名になっている。 京都学派の重鎮で語源学を長年続けられている吉田金彦さんは、京都大学の卒業論文で京都の東寺に残されていた『類聚名義抄』を研究され卒業論文に書いて研究を続けてこられた。そして、その成果を後輩の尽力で2013年5月に『古辞書と国語』臨川書店から出版された。 この本の中には、竹取物語に通じる「カガヤク」という語源を「光りカガヤク」とされているが本来は「求める、さがす、求婚する」というのが元の語源の意味であると述べられ『竹取物語』で5人の貴公子が求婚に訪れることと深い関係があると述べられている。 この『類聚名義抄』は、東寺にあった物で弘法大師・空海が開いた場所でもあり遣唐使で中国の長安へ行ったときに持ち帰り作られた可能性もある。 京田辺市にある竹取翁博物館の小泉館長は、竹取物語の作者を空海と述べていて、その場所も京田辺市で密教寺院が多くあり深く関わっているのではないかとみておられます。
その三山木の場所に天神社があり、その天神川の横にある天神山には、かつて天神社があって古く弥生時代の高地制集落が現在も存在する所(卑弥呼の邪馬台国の頃の遺跡)から『竹取物語に登場する恋愛の場所であった』 という重要な地域となるであろうとされ話題になっている。 「竹取物語かぐや姫サミット」には、かぐや姫美術館の山口館長さんが広島から参加頂きました。(上の写真右側)その時に7市町で「かぐや姫サミット」の地域間交流しているが、本命は京田辺市が発祥地だと断言された。
山口様は、京田辺舞台説を15年ほど前に聞いて見に来られ「きっちりとした説をお持ち」だとびっくりしてお帰りになられていた。 そのご縁で山口様が収集された「竹取物語の古本」の写真を今回の「サミット特別展示物」として提供して頂き会場で皆さんにみて頂きました。 また、大阪・徐福友好塾主宰 代表鳥居貞義様(上の写真左側)からは、 「2周年おめでとう御座います。今後末永く続く為の基盤が出来たこととして誠に意義深いことと存じます。 (中略)
神話はどのような時代背景で生まれ、どのように伝搬したかが研究の対象となります。 そのためには、竹取翁博物館のような施設が是非必要であり、それが民力すなわち、 民間人の力でできあがったことに敬意を表します。」という丁重なメッセージを頂きました。 平成26年(2014)2月1日 天の川七夕星まつりの会 代表 大阪・徐福友好塾主宰 鳥居貞義 竹取翁博物館で2014.2.1に開催された「国際かぐや姫学会」と「竹取翁博物館シンポジウム」では、京都学派の重鎮で語源学の吉田金彦名誉教授から、「奈良・平安時代の歌垣(求婚)」について東寺に残されていた『類聚名義抄』を初披露されました。 ■吉田金彦さん・・筒木の「竹取物語の舞台」説は正しく賛同する!
『古事記』の「大筒木垂根王」と「大筒木真若王」の「筒木」は、継体天皇の筒木宮であり山城国のことである。
「迦具夜比売命(かぐや姫)」の「竹取物語の舞台」が京田辺市であるという貴方の説に賛同します。 吉田氏紹介-語源研究の第一人者。京都大学文学部卒業。専攻:国語国文学。京都府立女子短大教授、大阪外国語大学教授など歴任。姫路独協大学名誉教授。現在: 日本語語源研究会代表、京都地名研究会代表理事。著書:『日本語語源学の方法』
『古代日本語をさぐる』『古代日本語を歩く』『京都滋賀 古代地名を歩く』『ことばのカルテ』『埋もれた万葉の地名』他多数。 〈参考〉吉田先生の過去の研究発表(HPバックナンバーから)
・ 類聚名義抄の「?」の和訓イシマについて 吉田金彦
・「かたびら」の謎 ―地名と訓点語はなぜ共用されたか ―
・家持の語法 ―「心つごく」は歌語か訓点語か―
・憶良の語法 ―くれくれと―
「国際かぐや姫学会」 http://taketori.koiyk.com/
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同様の状況証拠を指摘すれば、帝は、翁邸にかぐや姫を実見しに行く口実として、御狩の行幸を提案する時、「みやつこまろが家は山もと近かなり」と発言する。「山もと」については、『続日本紀』和銅四年条に「丁未。始置都亭駅。山背国相楽郡岡田駅。綴喜郡山本駅」とあって、当時既に「山本」という地名が存在したことが知られる。そうした地名が存することは、そこが京田辺市にある甘南備山のご神体山、大住隼人の「月読神社」の山麓に位置する土地であることを意味しており、「筒木」は「山もと近かなり」という条件を満たす地域であることが知られるのである。 木花咲耶姫を主祭神と祀る浅間神社の総本社・富士山本宮浅間大社 o 物語の結末で、富士の山(士に富む山)が登場することと、かぐや姫が月ではなく富士山に帰ったという富士市説から麓の富士市にある竹林を由来としている。また、竹取物語と類似の話が富士山本宮浅間大社(富士宮市)の縁起として伝えられており、祭神の木花咲耶姫がかぐや姫のモデルだとする説もあるが、祭神を木花咲耶姫に擬するのは近世からともされる。 東京と富士市を結ぶ高速バス、かぐや姫エクスプレスの車体ロゴ 富士市にあるマンホールのフタ。 ·
京都府向日市竹の子の里であり孟宗竹が多い。孟宗竹は江戸時代からのものである。 o 竹取の翁は「讃岐の造(さぬきのみやつこ)」と呼ばれていることから、竹取物語の舞台は大和国広瀬郡散吉(さぬき)郷(現奈良県北葛城郡広陵町三吉)と考えられている。また、かぐや姫に求婚をした5人の貴族が住んでいたと想定される藤原京から十分通える距離であり、「竹取物語ゆかりの神社」と称する讃岐神社も鎮座している。 o 古代歴史の舞台である飛鳥や藤原京の南に位置する高取山は、中世には高取城がそびえたち、現在も立派な石垣が残っている。この高取山が、竹取の翁が住んでいた場所だという説がある。鎌倉時代に僧・仙覚が、江戸時代にも国学者・契沖が、「竹取」は「タカトリ」と読み、高取山が竹取説話の舞台であるという説を唱えている。 ·
滋賀県長浜市木之本町の辺りは、日本最古の羽衣伝説の舞台となった余呉湖や、背後の山の字名が「香具山」と呼ばれる伊香具神社(いかぐ)、石作の皇子を連想させる石作神社、月を連想させる高月町といった、竹取物語に登場する事物に関係するような神社や地名が多数点在する。また、かぐや姫に求婚をした5人の貴族が住んでいたと想定される近江大津京から、馬を乗り継ぐ等すれば通えなくはない距離である。 海外の類話とそれに関する諸説[編集] アバ・チベット族「斑竹姑娘」との関連[編集] 「斑竹姑娘」も参照 竹取物語に似た日本国外の民間伝承としては、例えば中華人民共和国四川省のアバ・チベット族に伝わる「斑竹姑娘」(はんちくこしょう)という物語[31]がある。内容は、竹の中から生まれた少女が、領主の息子たちから求婚を受けたが難題をつけて退け、かねてより想いを寄せていた男性と結ばれるという話だが、中でも求婚の部分は宝物の数、内容、男性側のやりとりや結末などが非常に酷似している。 伊藤清司(東洋史[32])は、原説話が日本とアバ・チベット族に別個に伝播翻案され「竹取物語」と「斑竹姑娘」になったとした[33]。これに対し、益田勝実(日本古代文学[34])は、『金玉鳳凰』収載の「斑竹姑娘」の改訂過程への疑問と翻案説に賛成しないとした[35]。 近年の研究では、奥津春雄(国文学[36])はむしろ「斑竹姑娘」の方が「竹取物語」の翻案であるとしている[37]。
刊行本[編集] ·
タイトル=“竹取物語”で検索(国立国会図書館デジタルコレクション) 原文・校注[編集] 流布本系 · 『日本古典文学大系 9 竹取物語 伊勢物語 大和物語』 阪倉篤義校訂 岩波書店 1957年10月 · 『竹取物語』 阪倉篤義校訂 岩波文庫、1970年、ISBN 4003000714 · 『日本古典文学全集 8 竹取物語、伊勢物語、大和物語、平中物語』 片桐洋一校訂 小学館 1972年12月 · 『新潮日本古典集成 竹取物語』 野口元大校注 新潮社 1979年5月 ISBN 978-4-10-620326-8 · 『新編日本古典文学全集 12 竹取物語、伊勢物語、大和物語、平中物語』 片桐洋一校訂 小学館 1994年12月 · 『新日本古典文学大系 17 竹取物語 伊勢物語』 堀内秀晃校訂 岩波書店 1997年1月 ISBN 978-4-00-240017-4 古本系 ·
『日本古典全書 竹取物語・伊勢物語』 南波浩校注 朝日新聞社、1960年 ·
『かぐや姫と絵巻の世界 一冊で読む竹取物語 訳注付』 上原作和・安藤徹・外山敦子編 武蔵野書院 2012年10月 ISBN 978-4-8386-0647-4 現代語訳[編集] ·
『完訳日本の古典 第10巻 竹取物語、伊勢物語、土佐日記』小学館 1983年 ·
『竹取物語』 星新一訳 角川文庫、1987年、ISBN 404130315X ·
『現代語訳 竹取物語』 川端康成訳 河出文庫、2013年11月 解説書[編集] ·
『竹取翁物語解』 田中大秀著 松屋書店、明治28年(1895年)(『竹取翁物語解』 - 国立国会図書館) 出典・補注[編集]
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^天理大学附属天理図書館所蔵、重要文化財『竹取物語』、天正廿年林鐘下旬中院通勝書写奥書 2
^阪倉篤義「竹取物語」岩波文庫、1970年 pp.. 91-93 3
^高山市図書館ではなく高山市郷土館の方である。田中大秀が所蔵していたもの。 4
^南波浩「日本古典全書 『竹取物語・伊勢物語』」朝日新聞社、1960年 pp.. 36-40 5
^古筆学研究所編「古筆学のあゆみ」八木書店、1995 pp..119-120 6
^関根賢司・髙橋亨「竹取物語辞典」(「新編竹取物語」おうふう、2003年) 7
^武藤本(流1-1)・高山図書館本(流1-1)・武田本(流1-2)・島原本(流2)・蓬左文庫本(流3-1)・吉田本(流3-1)等に「さかき」。山岸本(流1-3)・群書類従本(流3-2)に「さぬき」。他流布本、並び古本に「さるき」。 8
^南波浩「日本古典全書 『竹取物語・伊勢物語』」朝日新聞社、1960年 pp.. 141 9
^この物語には「三」という数字が頻出する。 11
^なよ竹は「しなやかな竹」という意味で、ちらちらと揺れて光ることを「かがよう」という。 12
^ abcdef 片桐洋一・福井貞助・稲賀敬二 『日本の古典をよむ 6-竹取物語・伊勢物語・堤中納言物語』 小学館、2008年。 13
^「夜這い」の語は本来結婚を求める「呼ぶ」に由来する言葉とされている。ここでは「夜に這い回る」を語源とする新解釈を創作している。 14
^神仏が人の形をとって顕現した姿、または化物の類。 15
^「鉢を捨てる」と「恥を捨てる」。 16
^「玉(玉の枝)が悪い」と「魂(性質)が悪い」。 17
^「阿部なし」と「敢へなし」("敢えない"、張り合いがない)。 18
^「あな食べ難」(ああ食べにくい)と「あな堪へ難」(ああ耐え難い)。 19
^「貝無し」と「甲斐なし」。 20
^『年を経て浪たちよらぬ住吉のまつかひなしときくはまことか』。"幾年も経って浪が打ち寄せなくなった住吉の浜の「松」のように待っていたのに「貝がない」なら、「待つ」「甲斐がない」と聞くけれど、本当なの?" 21
^「かひはなく有りける物をわびはててしぬる命をすくひやはせぬ」。"かい(貝・甲斐)は無かったけれど、思い悩んで死んでいく命を、かい(匙)で掬うように、救ってはくれないのか"。 22
^人間界での長い年月は天人にとって僅かな時間に当たる。 23
^周囲を壁で塗り籠めた部屋。 24
^未熟者。天界と人界では時の感覚が異なり、翁といえど「幼き人」。あるいは単に「幼稚」(=愚かな)の意味か。 25
^最後だと、天の羽衣を着るまさにその時に、ふとあなたをしみじみと思い出してしまうものね。 26
^月世界への思いを表現する仕事に相応しい氏。新井本(古2)「いはかど」。その他流布本「いはかさ」。 27
^上原作和・安藤徹・外山敦子編『かぐや姫と絵巻の世界 一冊で読む竹取物語 訳注付』武蔵野書院 pp.. 105 28
^「富士の山(士に富む山)」と「不死の山」。これは適当でないという説もある。 29
^[1]孫崎紀子「『竹取物語』のかぐや姫はイラン人だった」,現代ビジネス、近藤大介「北京ランダム・ウォーカー 革命から33周年 過去10年で最高の危険水域に達しているイランの危機」2012年2月13日で紹介されている。 30
^関裕二著『古代史謎解き紀行 I ヤマト編』ポプラ社、2006年 31
^田海燕編『金玉鳳凰』(少年児童出版社、中華人民共和国・上海、1961年)に収載/邦訳:田海燕編・君島久子訳『チベットのものいう鳥』(岩波書店、1977年) 33
^『かぐや姫の誕生 ― 古代説話の起源』(講談社、1973年) 35
^論文「「斑竹姑娘」の性格−『竹取物語』とのかかわりで」(『法政大学文学部紀要』33、1987年) 37
^『竹取物語の研究-達成と変容』(翰林書房、2000年 ISBN 9784877370978)の第六章「斑竹姑娘と竹取物語」
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野村純一他編著『昔話・伝説小事典』、みずうみ書房刊、ISBN 4838031084 ·
関裕二著『古代史謎解き紀行 I ヤマト編』、ポプラ社、2006年、ISBN 978-4591091920 ·
原田実著『トンデモ日本史の真相 と学会的偽史学講義』、文芸社、2007年、ISBN 978-4-286-02751-7、109-112頁 関連項目[編集] ·
日本の中古文学史 ·
羽衣伝説 ·
讃岐神社 ·
竹林 ·
かぐや(月周回衛星) ·
かぐや姫エクスプレス- 東京~富士間を走る高速バス ·
かぐや姫号- 広島~東広島・竹原を走る高速バス ·
富士かぐや姫茶漬け- 富士市のご当地グルメ ·
1929年、古関裕而は管弦楽のための舞踊組曲『竹取物語』を作曲、イギリスのロンドン市のチェスター楽譜出版社の作曲コンクールに応募し入賞。これは日本人初の国際的作曲コンクール入賞作品で報道もされた(現在その楽譜は失われたとされる)。 ·
竹取物語 (室内楽曲)- 日本人作曲家貴志康一が、1933年に作曲したヴァイオリンとピアノのための楽曲。 ·
かぐや姫の物語- スタジオジブリ製作の長編アニメーション映画。高畑勲監督。 ·
隼人 ·
桃太郎伝説–ハドソン製作のゲーム。ゲーム中、5つの難題を基にしたクエストがある。 外部リンク[編集]
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本の万華鏡 第137回常設展示 「竹取」物語、国立国会図書館リサーチ・ナビ テキスト・解説[編集] ·
竹取物語(國民文庫)、日本古典文学テキスト ·
『古典に親しむ』-「竹取物語」【ふじの煙】全文訳(意訳あり) ·
バージニア大学図書館(日本語テキスト・イニシアティヴ) o 竹取物語 o 万葉集 第十六巻 ·
『竹取物語』への招待、物語学の森 写本[編集] 絵巻・奈良絵本[編集] ·
龍谷大学電子図書館貴重書画像データベース o 竹取物語[奈良絵本]、「歌書と奈良絵本」展 ·
竹取物語、国立国会図書館貴重書画像データベース ·
竹とり物語、九州大学附属図書館所蔵貴重資料画像データベース ·
竹取物語絵巻 第一巻、國學院大學図書館デジタルライブラリー 自治体関連[編集] <img
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